2008年08月25日

WHEREっ..?

よーし!明日引っ越しするぞ〜

前から聞いてたリハ棟改修工事の話が急に具体的な動きとなったあわただしい1週間でした。
改修期間中、一時的に院内の別の場所に移動するってことのようです。

” 一番ボロい建物に来て ”と言えばそれで十分伝わってた道案内。
そして疲れたときに眺める海と海風が最高の癒しだったこれまでのリハ棟は、名残惜しむ間もなくなくなることになりました。


巨大ネズミ、ゴキブリの大群、壊れて使えない義肢装具の山、プレデターみたいな筋トレマシン、用途不明の木馬、鳥のフンがたまった小箱、でかい魚の顎

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引越しっていろんなものが出てきてワクワクします。
出てくるもの一つ一つにきっと意味があって、それぞれの歴史を持ってます。

 この装具使ってた人は今ごろどうしてるのかな
 木馬は何に使ってたのかな
 顎は食べ残しかな

運び出しながら、一つ一つになんとなく思いを馳せてみます。
そして、容赦なく全部ゴミ捨て場送りです。



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とりあえずせっせと荷物を外に運び出してますが、実はこの時点ではまだどこに引っ越すかちゃんと決まってない完全な見切り発車 unbelievable…

後日とりあえずの引っ越し先が隣の建物に決まったのはいいけど、元々そこにあった部署がいまだに立ち退く気配すら見せない これもやっぱりunbelievable…

取り壊しは早くも始まってて戻る場所もないので、こうしてリハビリテーション科スタッフは見事に居場所をなくしました。

とりあえず飛び出したはいいけど行き場がない家出少年状態。
それが病院という規模で平気で発生。

こんな状態がすでに10日以上です。

リハビリできる場所が他にないし道具も使える状態じゃないので、今はほとんどリハ診療はできてません。病棟に行ってやったり、来た患者さんは外に寝転んでもらってやったりする程度で、患者さんにもどう説明していいものか。

仕方ないので、解体作業を手伝ったりしながら毎日過ごしてます。
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” 急げ急げは恵みなし ”
ということわざがあるくらい基本的に何をするのものんびりPOLEPOLEなタンザニア人ですが、壊すのだけは早くてびっくり。
他のスタッフは一日中何をするでもなく裏のブランコや滑り台でしゃべって過ごしてます。


なにより先に建物のリハビリが必要な状態で、確かに明日壊れてもおかしくないような雰囲気はありました。基礎も柱も壁もだいぶボロボロだったから、いっそダイナマイトで吹っ飛ばして新しく建て直した方がよさそうでした。
壊れる前に壊したほうがいいのは分かるとしても、いくらなんでも突然過ぎじゃ…

日本の病院では絶対考えられない話ですが、この無計画さ・無鉄砲さにこそアフリカらしさが溢れてます。
こういう見通しのなさが少しずつでも改善しない限り、アフリカはいつまでたっても今のアフリカから脱皮できないような気もしますが。


改修工事はDANIDAというデンマークのODAによる援助で、完成は11月ごろの予定です。
改修後は1階部分全部がPT室になるそうで楽しみです。


posted by たいよう      at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ODA民間モニタリング

ムナジモジャ病院でODA民間モニタリングがありました。

要するに日本の税金がどれだけ途上国のために活かされているかの視察です。
モニターに参加したのは日本の一般市民代表で、会社員1人、教員(小学校、高校、大学)3人、大学生4人、高校生4人。
たまたま、らしいんですがだいぶ教育分野に偏ってます。

モニタリングのテーマはズバリ、
「日本のODAがいかにうまく行われてるか」

説明内容について打ち合わせはしましたが、当日は朝からなんとなくソワソワ…
やましいことはないつもりですが、なにしろ「うまく」というとこがミソのようで…

最初は治療風景の見学。
引越し問題の影響で、これはやむなくちっちゃな特設リハ室でやりました。
前のリハ室の様子を見て欲しかったけど、こればっかりはしょうがない話です。
引越しの無計画さについては、まさに「アフリカらしさ」ということで分かってもらえばこれはこれでOK。

続いて説明の時間。
みなさんさすが国際協力に興味あるだけあって聞く態度も質問も真剣そのもの。
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高校生ということでかわいい質問期待してたら、これがとんでもない!
将来自分も同じようにボランティアをしたいという子が多いためか、まるで自分のことのようにまじめに考えている様子が印象的で、配属先の問題点をふまえたいい質問を時間が足りなくなるまでしてくれました。
いやー。感心…
少なくとも自分が高校生のときは、そんな質問絶対できなかったと思います。
せいぜい “やっぱ暑いですか〜?”とか”何がおいしいですか〜?”とかが関の山かな。

世の中には、学生のうちからこんなにも真剣に世界のことを考えてる人がいるんだと知りました。
今まで周りにはいなかったし、なにより、自分自身がそんなことにこれっぽっちも興味を持ってませんでしたから。
そんな僕も、2年前の自分が見たら我ながら「そんなとこで何やってんの?」って思わずツッコミたくなるような生活を今では送ってます。
人生、先のことなんて分かりません。

それはさておき
説明の中で配属先の問題点やニーズについても話をしました。

JICAボランティアをマンパワー的にみなす援助慣れの雰囲気が見え隠れすること、その援助慣れが現地スタッフ不足という危機意識を鈍らせていること。

伝えたかったのは、これこそが今現在の一番大きな問題点だということ。

この「援助慣れ」という言葉を使っていいものか、本当は少し迷いました。
「援助慣れ」は決していい意味の言葉ではなく、途上国自身の自立を促せず援助に頼りきってしまっている状況を指します。
つまり、前任も含めた今までのJICAボランティアの活動を否定することになるのではないか、ということです。
これでは「うまく」ODA活動が行われていることのアピールにならないどころかむしろマイナスでしかありません。

案の定、その点に関してもいくつか質問が出ました。
税金を納める市民の代表として、当然といえば当然の質問だと思います。

あとで引率の推進協会スタッフに「援助慣れ」という表現は正直どうだったか尋ねてみました。
「現時点の問題点は問題点として正直に挙げたのはよかったと思います。それに対して、いかに方針を立てて活動を進めていくかということが伝わってむしろよかったんではないでしょうか?」
とのお言葉。
ホッと胸をなでおろしました。

そのスタッフ、人手不足に悩む僕を見て帰り際に
「ここでリハビリを受けた子供たちが将来理学療法士になりたいってなったら、それはそれで長い目で見た1つの成功ではないでしょうか」
と声を掛けてくれました。

今までの自分になかった発想。そして、今の自分にとって一番救いになる一言。
ありがたやです。


高校生や大学生にとっては今後の人生を良くも悪くも左右する可能性のある体験だったと思います。だから彼らになにか希望持ってもらえるような説明をしたかったと同時に、現場レベルの「リアルなアフリカ」を直に感じて欲しいと思ってました。
みなさんはこれから今回の経験を日本での広報活動という形で広める役目があるそうです。
大都市ダルエスサラームと観光地ザンジバルしか視察できなかったようで、これぞアフリカ!なウルルン体験はあまりできなかったようですが、はたしてたくさんのことを吸収してもらえたでしょうか。
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正直な話、むしろこっちがいろんなことを学んだ経験でした。

そして、貴重な日本食のお土産をたくさん頂きました。
佐賀県産味付のり …ナイスチョイス!
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米炊きます。

posted by たいよう      at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月17日

キャメロンですけど

イギリスの実習生キャメロン(仮名 ♂)の話です。
今回はグチを書いてスッキリします!


ある日手指の屈曲制限がある患者さんのストレッチをしてた時のことです。
患者さんもストレッチの痛みをこらえて毎日リハに通ってるんですが、そのリハを見たキャメロンが一言。
 THAT'S PHYSIOTERRORIST!! フィジオセラピストってかフィジオテロリストだ。

ジョークのつもりで言ったみたいだけど、「実習と観光と半分半分」と堂々と言ってのけるような怠け者にそんなこと言われると頭にきます。
知識も技術もない学生のくせに、言っていい悪いの区別も付きません。付けようとしません。

イギリスやオーストリアの実習生を見てて、ヨーロッパでは痛みを出すようなリハはまったくナンセンス、といった考え方があるようだと分かってきました。
彼らの中ではきっと ” 古い 、人道的にどうなの?” って感じでしょうか。

たしかに” 出してはいけない痛み ” はあります。痛み・苦痛を伴う訓練は基本的に×です。
同時に、 ” 多少我慢しなきゃならない痛み ” もあると思います。
そこらへんの線引きが曖昧だから、なんとなく” 痛み ” と名の付くものは盲目的にゴミ箱に放り込む。
そんなだから、痛みを我慢してストレッチを受けている患者さんと僕を前に空気読めないジョークをかましてしまう。。
だからといって、認知運動療法やらJFやらAKAやらの手技や疼痛緩和ができるのかというと、もちろん学生がそんなことできるはずもなし。
鏡見てみ、自分が一番イタいから。


さて、そんなキャメロンの実習態度は…
・毎日遅刻&早退
(8時に来ると約束させたが、2週間後約束したこと自体忘れてた。2度注意したが変わらず)
・自分はスタッフと対等と勘違い
・挨拶しない
・ガム食いながら患者対応
・他人の持ち物を足で扱う
・平気で嘘つく
(やってもいない膝の可動域訓練をやったかのように125°とカルテに書く。目の前でもう一度や
 らせると 、あーだこーだ言い訳して結局100°も曲げられない。手技もめちゃくちゃ)
・異文化を理解しようとする気持ちまったくなし(そのくせ毎日いろいろ勉強してるとか言う)

前回の3人娘に続いてまたヒドいのが来てます。
こうして活字にすると、改めてヒドい…


ということで。
前の3人の分も含め、
カンニンブクロももう限界、慢性ストレスという名のキリマンジャロついに噴火です。

ちょっと来いと裏庭に呼び出して、今日という今日は説教です。
今回は、真剣喝を入れました。

無理に稚拙な言葉使うと考えている内容まで幼稚と思われるので、とりあえず日本語で思ったことを全部ぶちまけます。
きたない言葉ももう知ったこっちゃなしです。どうせ分かんないんだから。
ポカーンとしてても、いいんです。
溜まりに溜まったうっぷんを浴びせれば。
そして何より、いいかげん頭に来てること・怒ってることが伝われば。

あとは、頭に浮かんだままに思いっきり叱るのみ(ここから英語)

I'm sorryとか言って静かに聴いてればいいものを、「1回しかやってないだろ」だの「おれは2年もいないたった6週間だけだから」だの「おれは自分で金払って来てる」だの。
注意されれば子供みたいに言い訳がましいことばっかり。しまいにはヘソ曲げて機嫌悪くする…

その態度、よけいムカつくんですけど

そんなの関係ない。そもそも何だその態度は。いちいち無礼なんだよ、実習生のくせに病院に遊びに来てるのか。
だいたいできるできないじゃなくて、やろうとするかしないかだろ。お前は全く努力してない!
さも自分が頑張ってますよみたいな見苦しい嘘をつくな!
朝からずっと待たされてる患者が見えないのか。週末に遊びに行くのは勝手だが、今お前がいるここは病院なんだよいいかげん自覚を持て!
守らないんだったら最初から約束なんてするな。
前の学生といいお前といい、そんなのがイギリスの文化なのか!

日本語で書くとそれなりの文章だけど、実際は文法も時制もへったくれもありません。
英語教えてくれた先生が聞いたらだいぶガッカリな英語だっただろうけど、とりあえず思ったことは全部言いました。

最後の一言にはさすがにムッときたらしくNo!と言ってたけど、そんなことでイギリスまで語られたくないって言うんだったら、自分がちゃんとすればいいだけの話。
こっちはこっちで地域の日本代表でやってんだから。

おかげで、礼節を重んじるという今までの紳士的なイギリスのイメージは崩れ完全に地に落ちました。
そして、自分の中でイギリス人嫌いがどんどん加速しているのがよく分かります。
イギリス人はそんなじゃない!っていう意見もあるだろうけど、今まで見た4人が4人ともまともな人間じゃないからしょうがないっす。


だいたい、こっちも人手が足りないのにくだらない実習生の受け皿になってる余裕なんてありません。
学校も学校で甘やかしすぎです。
” どうせ落とされたりしないから無理せず… ” みたいなことを学生に言って実習に送り出してた日本の某養成校を思い出しました。
僕としては、実習は自分のためと思って苦しみに耐える最初で最後のいいチャンスだと思ってます。そして、一人の患者さんを本当に時間をかけて診ることができるのも実習生の時だけです。
だからこそ、あの時学んだことやスーパーバイザーの言ったなにげない一言が今でも自分の中で色褪せずに残ってたりします。
もう戻りたくはないけど、今思うとあの経験は自分の中でなくてはならないもの。

ここに来る学生の ” 今が楽しければいい楽ならいい “ って考え方とは、いくら言い合ったところでお互い平行線しかたどれないのかもしれません。
それでも、地球の裏側には歯を食いしばって実習に耐えている学生がいるんだっていう姿を見せてやりたいという思いは変わりません。


以上、結局最後までsorryの一言も言えなかったどうしようもない学生キャメロン(なにげに本名)の話でした。





ラベル:実習
posted by たいよう      at 23:08| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

生命力

10日くらい前、あさ出勤してたときの出来事です。

いつものようにダラダラに乗ってたら、道を横切ってたおじさんが突然ばたりと車道に倒れ込んできました。
危機一髪、急ブレーキでおじさんは轢かれずに済みましたが、一向に起き上がる気配なし。

何が起こってるのか分からなくてしばらく様子を見てたけど、やっぱりピクリとも動きません。
見てるこっちも正直どうしていいものかとしばらく体が動きません。
イカンイカンとようやく車を降りて近寄ってみると、おじさんなんともうつろな表情。
その時は呼吸平静で脈もしっかりしてましたが、眼はだいぶフライアウェーしてます。
3人がかりでとりあえず路肩に移し、自分を落ち着かせて様子を確認。
手足は自分で動かすことができるようだけど、呼びかけても返ってくるのはぼんやりした反応ばかり。
もしやこれがクモ膜下出血か、と思いました。
” ちょうど病院に行くとこだから連れて行こう”
と提案したけど、周りを囲んでた人たちは
” ほっとけばそのうちよくなるよ 大丈夫大丈夫”
と能天気発言。

救急車を呼んでもどうせタクシー代わりに出払ってることが多いから、とりあえずダラダラを捕まえようと右往左往してました。
ところが、そうこうしてるうちに結局、おじさんは大勢に囲まれたままその場で静かに−

ムクッと立ち上がって、何も言わずにスタスタ立ち去っていきました。
オハヨーとでも言わんばかりに。
普通に。

えっ!? おっちゃん??

呆気にとられてまた動けなくなった僕に、隣で見てた女の人が
”エピレプシー(てんかん)だわ” って、よく知ってますな〜そして冷静だ〜
あれ日常なの?大丈夫?

おかげで遅刻しましたが、”人が道に倒れてて助けようと思って右往左往してるうちに元気になってどっか行っちゃってどうやらてんかんだったみたい”なんて説明するのもめんどくさくて、もどかしい思いをしました。


病院という職場柄見かけるのは怪我や病気の人ばかりですが、こちらの人は病気になっても回復力が違うように感じます。

Br. Stage Uから一気にWとかXに飛び級したり、GMT2だった手指が1週間で握手できるようになったり、骨折後の肘があれよあれよと曲がるようになったり、気付くといつの間にか1人で歩いて通院してたりと、日本では考えられないことがリハの中に盛りだくさん。
毎日が「!!」か「!?」の連続です。

何が日本と違うかを自分なりに考えてみると、

@それぞれ自分なりにいろんな自主トレを考えてやっている
A家族に頼らず自分でなんとかしようという意識が強い
B家族も自分でやって当たり前と思っていることが多い
Cそもそも頼れる人がいないことも少なくない
Dアフリカ人のポテンシャルがそもそも違う

@〜Bは確かに毎日でよく見る患者像だけど、どうもそれだけでは説明できないナニカがあるような…

とすると、やっぱDかな…
医療の発達していない地域で生き抜くために与えられた「回復力」という名の進化=D?
比べようがないから分からないけど、人類発祥の地アフリカだから考え方次第ではそのぶん世界で一番進化しててもおかしくない気もします。

サバンナで傷ついた野生動物がそれでも一生懸命生き残ろうとするように、医療後進国に暮らす人々がなんとか懸命に生きようとする本能に近いものなのかもしれません。

もしそうなら、リハビリすることで「与えられる回復」って、ある意味ではその進化を妨げてるってことになりそうですが。
PTとしてはそんなことないと思いたいですが…どうでしょう。

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ラベル:!? 進化?
posted by たいよう      at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月11日

ザンパン、うまっ…

ストーンタウンで迷子になってる時にたまたま発見しました。

パン屋さん。
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看板も案内もなく、煙突以外は民家以上に民家的な雰囲気を漂わせてますが、なかには大きな窯が4つある立派なパン工房です。

ただでさえ昼でも暗い工房内はススであたり一面さらに真っ黒、そこを黒人のパン職人たちが行きかっている様子はなんともアンダーグラウンドな感じですが、そこで働く彼らはみんないたって陽気な典型的タンザニア人。
日本人と分かると「アチョー!」とか「フンファンフォー!」とかカンフーのマネをします。(ジャッキー・チェンもジェット・リーもここではみな日本人と思われてる)



パン工房といっても日本のパン屋さんを想像してはダメです。
中は、例によって汗だくの筋肉質な男たちで溢れてます。
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ここで作られるパンがうまいんです。
外はカリッカリに焼き上げてあるのに、中身はフワフワのモッチモチ。
24時間営業、いつでも焼き上きたての大小さまざまなパンたち。
この焼きたてのやつがほんと最高
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盛り上がる大胸筋、波うつ広背筋、躍る上腕二頭筋、うねる前腕筋群 …
行きかう大声、ほとばしる汗、弾ける笑顔 …
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そして出来上がる繊細でフカフカモチモチなコッペパン …
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どうやったらあの筋肉や大雑把な仕事っぷりからこんな繊細なパンが生まれるのか分からないし、どんな作り方したらパン職人があんなにムキムキになるのかも分かりません。
ムキムキな漢たちとモチモチなパンたちが織りなす不思議な空間。
学生時代の過酷な部活をつい思い出すけど、あくまでもそこはパン工房です。

とにかくそのパンがほんとうまいです。
工房にいれば、焼き上がって10秒後にはアツアツのまま食べることができるのも魅力です。

よく行くのでちゃんと覚えてくれています。
持ってきなよってタダで分けてくれたりします。
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ザンジバルパン(とはたぶん呼ばれてない)こそ間違いなく世界一おいしいザンパンでした。

小さいコッペパンが1本120シルぽっきりというのも魅力的です。
50シル以下の硬貨はほとんど流通してないので150シル払ってもおつりは返ってきませんが、200シルで払うと100シルおつりが返ってきます。

ちなみにこのパン、朝飯に食べてますが2日くらいほっとくとフワフワ感が嘘のようにガチガチのレンガみたいになります。
食べる機会があればお早めにどーぞ。





posted by たいよう      at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

言葉の壁

” スワヒリ ” はアラビア語で ” 沿岸 ” を意味します。
アフリカに元々あったバントゥー語と、アラビア語、英語、ヒンディー語などが混ざり合って生まれました。
日本ではほとんど馴染みのない言語ですが、タンザニア、ケニア、ウガンダといった東アフリカ沿岸地域の主要言語であり、約7000万人が話す言葉だそうです。

ザンジバルはスワヒリ語発祥の地。
そのため、自分達の話すスワヒリ語こそが正統と信じきっていて、言葉に関してはいくらかプライドを持っているように感じます。


日常生活でスワヒリ語を使うことにもだいぶ慣れてきた今日この頃ですが、ずっと気になってることが一つ。
それは、こっちの人たちが相手が外国人だろうがなんだろうがおかまいなしにスワヒリ語で話しかけてくること。

挨拶くらいなら全然いいとして、初対面での日常会話でもポカンとするような速さで聞いたこともない単語を並べたあと、こっちが分かってないと見るやため息混じりに 
 ” やれやれ ”
といったカンジをあらわにすることもあります。
ゆっくりしゃべって と頼んでも、2秒後には元の速さ。
すぐ忘れるのか現地人に見えてるのか、ゆっくり話せば伝わるという発想はまるでなさそう。

せめて聞き返したときくらいゆっくり話せばいいものを、何度も同じ表現・同じ速さでしゃべり続ける人にはさすがに知恵がないなーとウンザリします。

そういうときに限って、横で聞いてる人の ” この人まだ分かってないわよ ” って 一言だけはいちいち鮮明に聞き取れてカチンと来たりするわけです。

なんとか伝えようとしてる気持ちは分かるけど、どんどん声はデカくなるわツバのシャワーは飛んでくるわ。
聞こえてないじゃなくて速すぎるんだって。

それだけ自分達の言葉に「誇り」を持っているってことでしょうか。
だとしたら、ここまで一途にその国の言葉にこだわることもそれはそれである意味立派なことかもしれません。


観光客(実習生含む白人)が多いんですが、彼らは彼らで英語しか話しません。
彼らもここでは外国人ですが、英語至上主義なのかなんなのかスワヒリ語を含む ” 外国語 ” なんて話そうとしません。
だから、彼らは本当にネイティブな現地民との会話を楽しむことはできません。


日本だと、相手が外国人ならどうにかつたない外国語を駆使して話してあげるとか、簡単な日本語を選んでゆっくり話してあげるとかの気配りを無意識にするのが当たり前です。
彼らの行動が不自然で時に傲慢にさえに見えるのも、きっとそんな感覚があるからです。

結局日本人は国内でも国外でも外国人に気を遣ってばっかりで、客観的に見るとなんだかどうしようもなく不憫です。
日本人は優しすぎるのかなぁ。それとも日本語の「誇り」を失くしてしまったのかなぁ。

外国語が話せることはもちろん素晴らしいことだけど、個人的には日本語が世界で最高に素晴らしい言葉だと思ってるので、もっと「誇り」をもって堂々としてたいです。
少なくとも日本国内なら、まずは ” 日本にいるのにどうして日本語を話そうとしないんだ ” くらいの気持ちを持って外国人に接していい、と改めて思うようになりました。


そんなこんな、高い高い言葉の壁を見上げると大変なことが数え切れないほどありますが、ザンジバルでは英語を話せない人の方がよっぽど多いのでこっちもスワヒリ語一本でやっていこうといさぎよく思えます。
中には英語を話したがる若者もいますが、こっちは使い慣れたスワヒリ語の方が楽なので、
英語のタンザニア人&スワヒリ語の日本人の会話 という変な状況もしばしばです。


よく「間違いを繰り返してこそ上手くなる」と言います。
確かにその通りかもしれません  

が、

「あなたは本当に親切だ」と言ったつもりが「あなたは本当に黒い」になってたり、
「子供たちはお見舞いに来ましたか?」のはずが「虫たちはお見舞いに来ましたか?」
なんて言ってたり・・

ヒヤッとするような間違いも一度や二度ではありません。
その度に笑って済ませてくれるみんな。

そんな時のタンザニア人は、今度はうってかわってすごく親切な存在に思えてくるのでした。






ラベル:誇り
posted by たいよう      at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月03日

slave trade A

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今でこそこの教会は心地よい風と小鳥のさえずりでのんびりとした雰囲気です。
平和が訪れた今となっては、奴隷たちの過酷でリアルな生活を身をもって知ることは容易ではありません。
同じように、鎖に繋がれ絶望に打ちひしがれた当時のアフリカ人にとっては今の平和な昼下がりの光景なんてきっと想像できなかったと思います。 


当時の写真が残っていました。
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そこに写るのは、みな一様にやつれてこそいても今とほとんど顔立ちの変わらない ” 見慣れた アフリカ人” 奴隷です。
それがかえって過去が現実であったという認識を倍増させます。
実際にこの地で奴隷貿易があっていたという実感を一番与えてくれたのが、なによりこの写真でした。


毎年数十万人のアフリカ人が奴隷船で新大陸に運ばれましたが、生きてたどり着いたのは約1500万人、途中で亡くなった人はその5倍と言われています。

この大聖堂はエドワード・ステアー Edward Steereというカトリックアングリカン教会の司教が奴隷廃止の翌年1874年に建てたものです。
イスラム文化圏とあって島で見かける教会はここ一つだけで、「悲しい歴史を自由と平和と発展の歴史で塗りかえよう」という願いがこめられているんだそうです。
彼は、” 宣教者であり旅人であり、奴隷たちの友達(friendと表記してある)であった ”そうです。
そして今はここの祭壇のすぐ後ろで安らか眠っています。
 IMG_3014.JPG



タンザニア本土とは少し雰囲気の違うザンジバル。
こんな過去の上に今のザンジバルは成り立っているのでした。

スワヒリ語でウスタアラブustaarabuという単語は「文明」を意味します。
奴隷貿易が盛んになるにつれ流れ込んできたアラブの文化。
新しい文化が入ってきて街の様子が次第にイスラム風に変貌していく過程こそが「文明の発展」を意味していたようです。

街中いたるところに点在するモスク、そこを行き交うイスラム教徒、毎日祈りの時間にどこからともなくスピーカーに乗って流れてくるコーラン、ザンジバルドアなどを特徴としたスワヒリ建造物。

オマーン支配の過去があったからこそ結果的にアフリカ文化とアラブ文化が融合した今のスワヒリ文化が生まれたことは確かでしょう。
アラビア語の影響を強く受けたスワヒリ語の誕生もその一つです。

街行く人たちの顔立ちは、いかにもアフリカ系の黒人、浅黒く毛深いアラブ風の人、そしてその中間のような混血の人たち、とさまざまです。
かつての ” 奴隷と商人 “ という過去を考えると、今のザンジバル人たちが互いに心の奥にどんな感情をもっているのかはとても興味のあるところです。

とはいえ、百数十年が経った今では人々みな Love & Peace!陽気にのんびり暮らしています。

故郷を愛し、スワヒリ語を愛するザンジバル人。
みんな同じようにスワヒリ文化に誇りを持っているという点では、今となってはアフリカ系もアラブ系も何も変わらないのかもしれない、と思うのでした。
posted by たいよう      at 23:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

slave trade @

日本は海水浴シーズン真っ盛りですね。
海水浴場は今ごろ海水浴客でいっぱいでしょうか?

こっちはクラゲいないし、昼間なら一年中泳げます。
特に暑すぎない今は一番の観光シーズンとあって、どこを見ても白人観光客ばかりで明るい雰囲気です。

そんな明るいザンジバルですが、この島が歩んできた歴史は決して明るいものばかりではありませんでした。
その過去を少し紐解いてみると、今の和やかな雰囲気とは違った顔を覗かせます。



時は大航海時代。
1499年にバスコ・ダ・ガマがザンジバルを訪れたことをきっかけとし、16世紀の始めごろにはポルトガルが東アフリカ海岸の支配者となっていました。
しかし中東オマーンが力をつけるにつれポルトガル人は次第にアラブ人に追い立てられ、1832年にはオマーンのスルタン(王)が宮廷をザンジバルに移しました。
その後1890年にザンジバルがイギリスの保護領になるまでオマーンによる支配が続きました。

当時の貿易の中心は ” 奴隷 ” でした。
その昔、この島はアフリカ諸国で盛んに行われていた奴隷貿易の中心地だったのです。


中央マーケットの裏手に一際目立つ大きな教会がそびえ立っています。
今ではただの古ぼけた教会にしか見えませんが、まさにこの場所が奴隷貿易が行われていた市場slave marketだったのです。
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奴隷たちは、東アフリカにとどまらず遠く中央アフリカからも連れて来られました。
” 裕福で幸せな生活が待っている ”
そうアラブ人商人にだまされて、こうして鎖で繋がれてこの地に連れて来られました。
 IMG_3027.JPG
この鎖は当時のオリジナルのものです。
この石像を見ると、どの顔も自分を待ち受けるのはとても明るい将来ではないとすでに察しているかのような表情をしています。


奴隷の収容室
半地下になった天井の低い小部屋が二つ並んでいます。
壁には換気用の小さな小窓が2つあるだけです。
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奴隷たちは市場で売られる前にここに連れてこられ、それぞれの部屋に70〜80人ほどがぎゅうぎゅう詰めにされていました。
当時はこの場所の間近まで海が迫っていました。真ん中の溝はトイレの役割をしていて、潮の満ち引きで糞尿を洗い流していたそうです。


奴隷売買所
大聖堂が建てられた今では祭壇の真ん前に位置していますが、当時は吹きさらしのまさにこの場所で奴隷の取引が行われていました。
 IMG_3018.JPG
奴隷たちはここに一人ひとり立たされて、まるで魚の競りのように売られていきました。
体の弱い奴隷は高値が付かないので、泣いたりするとムチ打ちが行われる場でもありました。
静まり返った教会内で実際にこの場に立ってみると、文字通り人生の分岐点に無理やり立たされたアフリカ人たちのうつろな表情が目の前に広がっている様子を思わず想像してしまいます。
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奴隷として売り買いされていたのは男性ばかりではありません。
母親が売られていくと、不要な赤子は殺されて穴に放り込まれました。
その赤子たちも、やがて来る潮の満ち引きで海に流されていったそうです。
穴は塞がれ、今では代わりに洗礼に使う台座が据えてあります。
多くの赤子が最期の時を迎えた穴は、今では皮肉にも新たな生命へのよみがえりの象徴に代わっています。
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ラベル:奴隷 教会
posted by たいよう      at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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