深夜1時
2時の出発に向け今日は早起き
朝というか、まだ夜
頭痛がひどい
ガンガンするような痛みだ
寝ている間に呼吸が浅くなって、軽い高山病になっているのかもしれない
なにしろここは3500mの高地
風邪ではないとは思いながら、今日もまた葛根湯に頼ってみる
よく覚えていないが、なんだか悲しい夢を見た気がする
その夢は、意識の奥の方にまだなにか暗い影を落としている
要するに、最悪の目覚め
寒い
寒すぎる
痛みをこらえ支度する
2時過ぎ
ヘッドライトと懐中電灯を頼りに4人、サドルハットを出発
当然、明かりなどない
星明りだけだ
新月なのか、月はどこにも見当たらない
辺りは不自然なほど静まり返っている
耳を澄ましても自らの足音しか聞こえない
静けさが、深い
空は大変なことになっている
一面に散りばめられた星という名の小さなライトが、漆黒の宇宙空間と無音の大地を照らしている
オリオン座の中にも20近い星が煌いている
顔を上げれば流れ星
あの停電の夜を思い出す
3:30
ひらけた台地、ライノースポットに到着
ここで3800m
すでに富士山より高い
こんな時間だというのに、街明かりが見える
キリマンジャロの麓の街、モシだ
山肌はライノーを越えたあたりからその表情を変えている
道という道はない
険しい岩場を両手も使いほぼ水平に渡る
まるでアクション映画の世界
闇のおかげで幸か不幸か下は見えないが、足を滑らせて滑落すればおそらく助からないということは容易に想像がつく
SASUKEみたいでスリルがあるのはいいが、なにしろ危ない
3900mあたりで植生も表情を変える
視界に映る緑は極端に少なくなり、もはや木と呼べそうな植物は生えていない
丸っこい枝ばった植物が足元に点在している程度である
斜面は石ころ交じりの砂利道
足をとられ歩きにくい
峰づたいに登る頂上までの道程
深い崖に挟まれた細い稜線をただひたすら登る
手も使うような登りが果てしなく続く
心臓は鼓動を打つのに必死だ
さいわい、頭痛はいつのまにか消えている
ただ、少しだけ息苦しさを感じる
意識的な呼気を心がけなければならない
そうでなければ次の吸気が不十分になる
はるかキリマンジャロの西側にほんのりと街明かりが見える
方角的に隣国ケニア首都、ナイロビか
キリマンジャロの向こう側はもうケニアだ
月はあいかわらず姿を現さない
いつのまにかオリオン座が真横に位置していることに気付く
自分たちがそれだけ登ったのか、それとも一心不乱に登っているうちに星がその座標を変えたのか
時計はすでに明け方に近い時刻を示している
6:00ごろ
標高は4200m程だろうか
東の空が白みだす
すでに雲海ははるか麓の方を漂っているようにさえ見える
アッシュコーンもはるか眼下から僕らを見上げている
紅みを増す空
雲に隠れた紅みがぼんやりと柔らかな光を発する
6:30
ついに太陽が雲海の上に顔をのぞかせた
ふわふわした雲の一点を朱色に染めたかと思う間もなく、あたりをくまなく照らしながらあっという間にその姿を現したアフリカの太陽
紅い、とにかく紅い
今までの何気ない一日一日も、自分の知らぬところでこうして始まっていたのか
ふつふつとたぎるものを覚える
キリマンジャロと朝日
眼下にはクレーターと大雲海
圧倒的な迫力で迫り来る大自然にみとれるしかない
複雑な起伏の多い無機質な崖
その岩肌を横から照らす朝日が、細かな陰影の表情を作り出す
まだまだ先は険しい
険しいなんてもんじゃない
数m歩いては休み、休んではまた数m歩く
休むために歩く
歩くために休む
そんなリズムになったのはどのあたりからだったろうか
立ち止まると猛烈な睡魔に襲われてしまう
正直、この辺りの記憶はところどころボヤけている
意識自体がはっきりしていなかったのだ
あいまいな意識は、高山病の症状なのか、ただの睡眠不足か、連日の疲れか、風邪による体調不良なのか、今となっては分からない
ただ、あいまいな中でもできる限りの状況判断を下していた
下そうと自分に言い聞かせていた
なんとなくだが足取りが少しフラついているという認識はあったし、谷底に転落しないよう岩肌に身を預けて休憩する余裕もあるにはあったのだから
黄色く濁った水をこまめに飲む
雑味たっぷりで、マズい
でも不思議と、ウマい
険しい岩場は永遠かと思われるほど続く
岩の隙間に雪の結晶が姿を現したのも4200mあたりだった
そのせいで岩の表面は滑りやすい
4300m
残り200mあまり
遠く朝日に照らされた雲海は、コーヒーに注がれたミルクのように刻一刻と表情を変える
疲れきった気力
もはや前に前に身体を押し進めることしか頭にない
うつむきがちになり、視線も足元の岩と重たい足ばかりを追っている
ふと顔を上げる
朝日と反対側、西の斜面
うっすらと麓の森を覆っている薄雲のあたりに、定規で引いたように均整の取れた黒っぽい山がそびえている
あんなところに山はないはずだが
もう一度目を凝らす
そして言葉を失う
山に見えたのは、朝日と今踏みしめているメルーとが作り出した「陰」という名の巨大な幻だった
うつらうつらした不明瞭な意識が作った心の隙間に、日常のスケールを超越した大自然がなだれ込んでくる
「なんてところにいるんだ・・・」
声にならない言葉が胸をかすめる
涙が零れる
理由なんてない
あまりの光景に魂を揺さぶられたから
ただ、それだけ
涙は止まりそうもない
学生時代
生まれて初めてのマラソン
40キロ地点で流れていたZARD「負けないで」を聴いた瞬間のとめどない感情を思い出す
そういえば、あの時も1人涙しながら2キロ先のゴールを目指したのだ
常に最後尾で一人こまめに休憩をとりながらの登り道
自分が足を引っ張っている
それは分かる
だがこれ以上速く進めそうもない
2人に励まされ、なんとか少しずつ頂を目指す
頂上でご来光を拝み下山してくる白人登山客とどれだけすれ違っただろう
「もうあとちょっとだよ」
親切に励ましてくれる人もいる
永遠にも思われた岩の難道にようやく終わりが見えてきたのは、そのころだった