知れば知るほど知りたくなくなることもある
「約束」に対するタンザニア人に認識に関して
いついつの何時と約束しても、タンザニア人がきちんとその時刻にやってくることはない
公共の施設であれサービス業であれなんであれ、日時に関してきちっと約束を守るタンザニア人はほとんどいない
keshoはスワヒリ語で「明日」という意味だが、その訳ははっきり言って疑わしい
「いつかそのうち」と訳したほうが絶対にしっくりくる
Insha allah(神が望むなら)
この一言がつくことで、約束のあいまいさはさらに絶望的なものになる
「神がお望みじゃなかったんだ」
そう自分を正当化する人に会うたび、あらかじめ神という言い訳や逃げ道を作られてるような気がしてくる
しかも神の意思である以上自分が謝る必要はないと考えているのか、すいませんの一言を絶対に言わない
(注 彼らはあくまで本気で神を信じてそう言っている。こうとき、自分には理解しがたいイスラム的思考を垣間見る)
こういうストレスが日に日に蓄積され、チリも積もれば山となって、気持ちがかなりまいった時期があった
赴任10ヶ月目
仕事・プライベートで、約束をすっぽかされるということがひたすら毎日のように続いた時期
日時を決めた以上その時刻に遅れたくないとこっちはそれなりの行動をとるが、それらの約束はどれ一つとして果たされなかった
遅れるとかいうレベルではなく、結局その場に姿を現さなかった
悪意のあるなしとか、もうどうでもよかった
結局、残るのはまた反故にされたという失望感だけ
このときばかりは何も前向きに考えられなかった
信じた者がバカをみる
信じた数だけ裏切られる
辛かった
対ストレスの容量オーバー
出口の見えない無気力感
生まれて初めてかってくらい気分が塞ぎこんだ
タンザニア人に会うのが本気で嫌になった
正直タンザニア人そのものが大っ嫌いになった
外に出ればタンザニア人に会う
会えば何かしらのストレスを受ける
仕事は直行直帰、休日も外出する気になどなれなかった
はるかタンザニアまで来て、タンザニア人のために汗水流して、その結果がコレ?
裏切られてばっかりの自分の存在意義は?
そこまでして、タンザニアのために働く必要がどこにある?
答えの出ない自問自答だけが頭の中を巡り気持ちの落ち込んだ日が数日続いた
もうタンザニア人の言動を信じない
それが最終的に導き出した、自分なりの答えだった
このままだと自分がダメになると知った時、とにかく今は自分の気持ちを最優先に考えないといけないと悟った
何よりも自分を大事にしたい時期
そうしないと自分がもたない
気持ちの面での一番の山場だったと思う
信じないという決意にはある意味覚悟がいる
ただし、これはあくまで言動を信じないということでタンザニア人自体を信じないというのとは自分の中で区別しているつもり
タンザニア人のことをなんでも信じている
そう言えたら確かに美しいが、自分にはそういう壁の乗り越え方はとてもできなかった
だが、その決意をしてからというもの不思議なくらい気持ちがラクになった
何をするにしても余分な気負いや力みなしで取り組めるようになった
背負ってた無駄な荷物を降ろしたぶん、フッと肩が軽くなったような感じに近い
その分自分が受けるストレスも少なくなり、ようやく気持ちのドン底から這い出せた
それから2ヶ月が過ぎ、今は落ち着いている
落ち着いた目で見れば、人の親切なところやいい所が自然と見えてくるから不思議だ
あと1年
何かしようと思えば短くもあるが、何もしないには長すぎる時間がまだ残されている
あのときの自分は、何を思ってタンザニアに来て何をどうしたいと考えてたのか
もう一度初心を思い出し後悔のない活動にしたい