断食の月はムスリムにとって特別な意味をもつそうだ
人々は日常のあらゆる場面でmwezi mtukufu(聖なる月)という言葉を口にし、神聖な瞬間を確認しあう
ということで、これを機会に今月は日本ではほとんど馴染みのないイスラームに関することをいくつか紹介したい
<六信五行>
ムスリムには、課せられた義務行為が5つと信仰対象が6つある
これらは、「アッラーのほかに神なし」「ムハンマドは神の使徒なり」という2つの最も根本的な原理(=信仰告白)に続く基本的な教義とされ、六信五行と称される
義務と信仰対象はそれぞれ
・信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼
・神、天使、啓典、使徒、来世、定命
中でも来世に対するイスラムの教えについて、実際にムスリムから聞いた話を今回まとめたいと思う
実際の教義とは異なる点があるかもしれないが、一個人としてのザンジバルのムスリムがどう来世を捉えているかという死生観を知る上での一つヒントになると思う
<天国と地獄>
イスラムにも死後の世界がある
この世はいつか終末を迎え、そのとき全ての死者は復活し、神による審判を受ける
神の審判によって生まれ変わった死者は、生前の賞罰として天国か地獄に送られる
天国peponiは永遠の幸福を手にすることができる場所
生まれ変わりの姿はそれまでの自分自身に変わりないが、そこでは永遠の若さ(男性は21歳、女性は19歳)を保つことができ生前の配偶者とも再会することができる
仕事はもちろん、礼拝や断食、喜捨などの義務も存在しない
我慢を強いることは何一つない
自由に酒を飲むことができ、酔っ払っても咎められることはない
ただし、豚はやっぱりいないという
反対に、地獄motoniは火獄とも呼ばれ、悪魔shetaniに永遠に身を焼かれ続ける場所とされている
<sawabuとzambi>
神の審判にあたり秤にかけられるのが、生前の善行sawabuと悪行zambi
これは生前の全ての行いを見届けた天使が記した記録を元に行われる
sawabuが多い者は天国に送られるし、zambiが多い者は地獄に送られることになる
ではムスリムにとってのsawabuとは具体的にどのようなものか
早い話、それは六信五行の務めを忠実に果たすことに他ならない
イスラームでは生まれてから死ぬまでの日常生活を全て網羅する細かいことわりが啓典(クルアーン)で規定されているので、六信のひとつ啓典を信仰することはそのままイスラームに則った日常生活を送ることを意味する
中でも六信五行は最も大きなsawabuとされ、礼拝を欠かさず行うこと、断食を全うすることなどは重きを置かれるが、そのほかにも神の思し召しに全て従うことからしっかり子育てをすること、挨拶をちゃんとすること、医者が患者の診療を行うことまで、全てがsawabuとなる
法に関わるような大事から日常のささいな出来事まで、ありとあらゆることがsawabuになりえるといえる
これらのことは啓典にも明示されている
礼拝の務めを守り、定めの喜捨をせよ。汝らの魂のために行った善行(の報酬)を、汝らは神の御許で見出すであろう。 (「雌牛章」第110節)
逆にsawabuに反する行いはzambiと見なされる
ちなみに来世に持ってゆけるのはsawabuとzambiのみで財産などは現世に残さなければならないそうだ
天国にしても地獄にしても、そこでの生命は永遠のもので、再び死ぬということはない
言いかえれば、一度天国に行ければ生涯を幸福に過ごせるし、そうでなければ苦痛を味わい続けることになる
この世には幸せは存在せず、真の幸せは天国にこそある
そのため、生前は教義の定めるsawabuに忠実であり続けるのだ
ここで興味深いのは、六信の一つ「定命」との関係だと思う
定命は定められた運命をさす
これは唯一・絶対・全能の神が世界の全てを決定するという認識を確かにするものだが、「最終的には全てを神が決める」ということを信じてこそ初めて「己が来世で幸福になることを願う」というのは矛盾をはらんでいるような気もする
ひらたく言えば、「人間というちっぽけな存在が来世を信じようが信じまいが最終的には神が全てを決めてしまう」ということを信じなければ来世で幸福になることは出来ない、ということである
来世を信じるムスリムは、火葬によって肉体が消滅すると復活できなくなることを恐れ葬儀を土葬で行う
埋葬時には、右わき腹を下にして顔をマッカ(イスラムの聖地の一つ)の方に向けて埋めるそうだ
この話を語ってくれたMzee Abdhramanアブドラおじいさん
歩くことができなかった以前の身体にむち打ち、今では階段も見守りで上り下りが出来るようになった
きついリハビリを続ける強い意思の奥底には、単に歩けるようになりたいという思いとともに、今の生を精一杯生きることでsawabuを全うしようとする強い意思があるのかもしれなかった
「礼拝も断食も喜捨もないし、酒も自由に飲める」ことを「我慢を強いることはなにもない」と表現した彼は、イスラームという教義に一見縛られたようにも見える今の生活をどう思っているのだろうか
嬉しそうに語る様子を見る限り、天国での永遠の幸福を待ち焦がれているようでもあった
顔いっぱいに刻まれたしわをさらにくしゃくしゃにして楽しそうに天国の様子を語る表情を見て、思わず考えた
来世での幸福な生涯を信じること。
ムスリムにとって、それはただ単にsawabuとしての意味以上に、現世を楽しくまっすぐ前向きに生きてゆくことへの大きなエネルギーにつながっているのかもしれない