タンザニアも日本も、ある程度の距離をもって客観的に眺められる今だから感じられることがある
一見徐々に発展しつつあるように見える物事のあり方について、最近よく感じること。
ここタンザニアのケータイ電話の普及率はすごい
街行く人はだれもがケータイを手にしていて
日本の普及率を上回るという統計にもうなずける
電気の通ってない村にまでケータイの波は広がりつつある
そういう人は、週に1,2度隣の村まで自転車を飛ばして充電しに行くそうだ
そこまでして、、と思ってしまうが、1度その便利さを知ると
手放すことはできないようだ
停電のいま、ここザンジバルでも人々は充電する機会を求めて電気のある場所を探し歩く状態が続いている
日本でも誰もがケータイを持っている
気がつくと通話やメール以外のわけの分からない機能が増えた
例えば、最近はフェイク着信なる機能まで登場していると聞いた
「暗い夜道での一人歩きのときに通話しているように見せかけて、通り魔・変質者等に対して牽制し、またそうすることで使用者が心理的に安心感を得ることを想定した 」とっても便利な機能で、「実際に通話していないことを悟られては意味がないため、使用者にはある程度の演技力が要求される」
らしい
実際には、早々に人との話を切り上げる口実に利用されたりすることが多いのではと思う
そんな機能に頼らなければならない・頼ろうとする気持ちが生まれる社会に、なんだか疑問を感じる
水・電気といった基本的なインフラ整備や固定電話というプロセスをすっ飛ばして一気にケータイが普及したり、本当に必要なのかというような機能が先を競って開発されたりする
どちらも、見ていて気味が悪い
なんだか物質的な発展に頼りすぎているような気がする
物に囲まれれば囲まれるほど、心のふれあいが空虚になってゆくような気がするのは自分だけだろうか
地球環境や人と人との繋がり
その他もろもろを犠牲にしてまで突き進む文明という名のエゴのベクトルは、これから先一体どんな方向に進むのだろうか
それもきっと加速度的に。
2年ぶりの日本
掃除機にデジカメがついたり靴にワンセグがついたりしたらどうしようか
いや、逆にデジカメに掃除機がついているかもしれない
浦島太郎は、ゼロと言い切れないその可能性がちょいとばかりこわい。