今日はイスラム教について。
イスラム教はアッラーという神のみを崇拝の対象とする一神教です。
神munguという単語に複数形は存在しません。
偶像崇拝禁止のためアッラーの絵や写真なんてものは存在せず、そもそもアッラーが男なのか女なのかすらも分からないとイスラム教徒は口を揃えます。
そんなアッラーですが、日本人から見ると、神の存在をより日常的に感じているような印象を受けます。
日本では「やおよろずの神」という言葉がありますが、森羅万象全てのものに神々が宿る、という発想はイスラム教徒には理解不可なよう。
そんな馬鹿な、といった顔をしながらも、
あの木にもこの靴にも、そのおしりにも神がいるのか !?
イスラム教徒は興奮ぎみに尋ねてきます。
イスラム圏において、神はどういう役割を果たしているのか−
ある日、よく知った人にお金がないから1000シルくれ、と頼まれました。
(イスラム圏には「喜捨」という宗教的慣習がある。信者の義務であるイスラム五行の一つで、金持ちは貧しいものに施しを与えなければならないというもの。 そのため、街でも当たり前のように手のひらを差し出されることがある。)
正直お金を直接渡すようなことはしたくないんですが、
どうしてもないんだ、今日の分だけでもくれないか?
との懇願。
それで明日はどうするの?
明日は他の人に頼むよ
あさっては?
きっと神が助けてくれるさ
楽観的だなぁと思いながらも、ほんとに困ってる様子だったので
「おれはイスラム教徒でもないから喜捨はしないよ、これは今回だけ。日本には裸銭を渡してよしとする習慣はないから・・・」とだけ伝え、渡すことにしました。
あさっては神がお金をくれるの・・・?
− そうじゃないんだ
そう言うと、彼は両手のひらを自分に向けた祈りのポーズで神に向かってこう言いました。
全能なる我らが神よ、あなたに感謝します。
こうして1000シルの恵みを受けました。
えーっ・・・ !? 神に感謝するの?おれは一体・・?
一瞬あっ気に取られて見ていると、その後に続けて一言。
そして、彼にはこれ以上の恵みのあらんことを−
ははーん! なるほど。
ここにイスラム世界での神への信仰心の表れが見て取れます。
人に助けてもらえる・恵みをもらえるのは、まさに神の思し召しがあってこそ。
つまり神が意として恵みを与えたという風に解釈されます。
だから、直接的な感謝の気持ちは他でもなく神に向けられる。
そして施しを行った人間に対しては、自分からではなく、また神の思し召しによって恵みが与えられる。
それがイスラム的な考え。
スワヒリの格言にもあります。
HATA UKIWA HUNA BASI, MUOMBE MUNGU ATAKUJALIA UPATE.
困ったときは神に頼むべし、思し召しで恵みが与えられるだろう。
そういえば、日常会話の中でも必ずと言っていいほど「神」が登場します。
別れ際の、また明日ね、という台詞の後に必ず一言。
Tukijaaliwa. ( Insha Allah. や Mungu akipenda. とも言う )
これらはいずれも、もし神が思し召しならね、という意味です。
将来のことなんて、人間のちっぽけな能力ではとうてい分からない−
全てのことを決めるのは神(=アッラー)であり、まさに 「神のみぞ知る」 ということです。
全てが神という存在を絶対的な拠りどころとして成り立っている社会、イスラム。
その神という軸に一切の揺るぎはありません。
生きることのあらゆる問いに対し、神に答えを求め、そして神に答えを見出す。
トイレでくらいしか かみ を意識することのない自分のような無神論者的な思考回路ではなかなか理解できない思想があり、やはりいつ見ても彼らの信心深さは新鮮なものです。
こうして考えると、一神教、多神教という枠を飛び越えた信仰心の深さの違いのようなものを感じます。
もちろん、どちらがいいとか悪いとかは全く別として。
そんなこんな、ザンジバルでの生活は「宗教とはなんぞや」ということをいつも考えさせられるな毎日なのです。
2008年11月04日
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